俵屋宗達(たわらやそうたつ)
生没年不詳

俵屋宗達 墨梅図(ぼくばいず)

俵屋宗達「墨梅図(ぼくばいず)
一幅 紙本墨画 京都府・細見美術館

 慶長七年(1602)の『平家納経』補修の際、三巻分の表紙・見返し絵を担当し、衝撃的デビューを果たす。その絵は王朝やまと絵を斬新な構図と形のデフォルメによって近世的な軽快なものに再生させたものだ。その後、能書家・本弥光悦(ほんあみこうえつ)の和歌巻の料紙下絵(りょうししたえ)に金銀泥を駆使した大胆な図柄を提供し、光悦との競作を果たす。その間、中国水墨画の学習から「たらし込み」技法を発展させ和様化させた水墨画の世界を完成させた。


 着色画では仏教美術の主題を二曲屛風に展開した「風神雷神図屛風(ふうじんらいじんずびょうぶ)」や養源院障壁画でやまと絵の新ジャンルを打ち立てた。「伊勢物語」や「源氏物語」を主題とする濃彩画でも、大胆な構図と繊細な描写で作り絵の新世界を提示した。


 さらに「(つた)細道図屛風(ほそみちずびょうぶ)」では、左右隻入れ替えても鑑賞できる構図を考案し、色面構成でも新機軸を出した。また「槇檜図屛風(まきひのきずびょうぶ)」では金切箔地(きんきりはくじ)に銀砂子・銀泥による霞、水墨による樹木描写で画期的な金屛風を創出した。

尾形光琳(おがたこうりん)
万治元年(1658)~正徳6年(1716)

俵屋宗達 墨梅図(ぼくばいず)

重要文化財 尾形光琳「太公望図屛風(たいこうぼうずびょうぶ)
二曲一隻 紙本金地着色 京都国立博物館

 京都の富裕な呉服商雁金屋(かりがねや)の次男として生まれた光琳は、十代の頃より能に親しみ趣味の世界に遊んだ。その一環として狩野派の絵師に()き画も学んだようだ。女性関係も派手だったが、三十代後半頃より画で生計を立てようと志す。当時流行の俵屋工房の画風を学び、四十四歳で法橋位(ほっきょうい)を得る。新境地を開拓すべく、型紙を用い、金箔の輝線(きせん)を縦方向に統一するなど工芸的手法を駆使して「燕子花図屛風(かきつばたずびょうぶ)」を描く。


 ついで「太公望図屛風(たいこうぼうずびょうぶ)」では故事人物図に挑戦し、崖の曲線や衣紋線(えもんせん)などを呂尚(ろしょう)(太公望)の臍下(へそした)丹田に集結するという理知的構図を創案した。


 水墨画においては雪舟・雪村の古画に学びユーモラスでシニカルな人物・動物を描いた。蒔絵意匠にも図柄を提供する一方で、工芸手法を絵画に導入すべく「紅白梅図屛風(こうはくばいずびょうぶ)」でその集大成を示した。中央の水流は銀箔足(ぎんはくあし)を思わせる地に紋様風に描かれ、左右に直線的な漢の白梅と曲線的な和の紅梅を対比させた。

狩野山雪(かのうさんせつ)
天正18年(1590)~慶安4年(1651)

重要文化財 狩野山雪「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」

重要文化財 狩野山雪「寒山拾得図(かんざんじっとくず)
一幅 紙本墨画 京都府・真正極楽寺 真如堂

 山雪は千賀道元の子として肥前国(現在の佐賀・長崎県)に生まれ、父が大坂に移ってのち、慶長十年(1605)に没すると、叔父の僧某の世話で狩野山楽(かのうさんらく)の弟子となった。のち師の長女竹の婿となり、四十八歳の折の妙心寺天球院(みょうしんじてんきゅういん)障壁画制作にあたっては、七十三歳の山楽に代わって山雪が制作の中心となったと思われる。寛永十二年(1635)、山楽が没すると京狩野家を継ぎ、五十八歳の時、東福寺の明兆(みんちょう)筆三十三観音像の二図を補作して法橋(ほっきょう)となった。


 生来学者肌の一面を持ち、後に子の永納(えいのう)が『本朝画史(ほんちょうがし)』として上梓した日本初のまとまった画伝の草稿百余人分の伝記を残した。


 画風では「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」にみられる無気味な造形が、「龍虎図屛風(りゅうこずびょうぶ)」にみられる硬直した形と共に奇怪さを増していく。その典型例が妙心寺天祥院(てんしょういん)旧蔵の「老梅図襖絵(ろうばいずふすまえ)」(米国・メトロポリタン美術館)だ。また「雪汀水禽図屛風(せっていすいきんずびょうぶ)」にみられる幾何学的構図と工芸的手法による静謐さも山雪の資質である。

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)
正徳6年(1716)~寛政12年(1800)

伊藤若冲「鶏図押絵貼屛風」
伊藤若冲「鶏図押絵貼屛風」

伊藤若冲「鶏図押絵貼屛風(にわとりずおしえばりびょうぶ)
六曲一双 紙本墨画 個人蔵

 京都錦小路で青物問屋「枡屋」を営む伊藤家の長男として生まれる。二十三歳の時父が没し枡屋を継ぎ、四十歳で家督を次弟に譲る。


 十代半ば頃から画技を学び始め、狩野派から中国名画の模写に進み、ついで家に鶏を飼って実物写生に精進した。三十七歳以前に若冲と号し、家督を譲ってからは画業に没頭し「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅の寄進を決意する。四十四歳で鹿苑寺(ろくおんじ)大書院に水墨障壁画五十面を描き、五十五歳の時、父の三十三回忌に合せて「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三十幅の寄進を完了した。六十一歳頃より石峯寺(せきほうじ)裏山に釈迦の一生を構成する石像群の制作に着手。石工への工賃のため水墨画一幅を米一斗に換えたという。


 「動植綵絵」は写生を超えた幻想世界を構築した極彩色による画期的作品だが、若冲は水墨画の世界でも革新的技法を開発した。拓版画(たくはんが)筋目描(すじめが)き、点描や桝目描(ますめが)きなどの新技法は、水墨表現の可能性を大きく広げた。

円山応挙(まるやまおうきょ)
享保18年(1733)~寛政7年(1795)

円山応挙「淀川両岸図巻」

円山応挙「淀川両岸図巻(よどがわりょうがんずかん)
一巻 絹本着色 明和2年(1765) 東京都・アルカンシエール美術財団

 丹波国桑田郡穴太村(たんばのくにくわだぐんあのうむら)(現在の亀岡市曽我部町穴太)で農業を営む丸山藤左衛門の次男として生まれ、十代で京都に出、十七歳頃狩野派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)の門人となる。二十七歳頃、尾張屋勘兵衛の店で眼鏡絵(めがねえ)を描く。ここで西洋の透視図法を学んだ応挙は三十三歳の時、これを応用した「淀川両岸図巻(よどがわりょうがんず)」を描く。この頃円満院祐常門主(えんまんいんゆうじょうもんしゅ)との関係がはじまり、三十六歳で「七難七福図巻(しちなんしちふくずかん)」を描く。


 平明な写生画風で人気を得、三十八歳で迫真的な「人物正写惣本(じんぶつせいしゃそうほん)」を描く。四十歳頃から三井家との関係が始まり、四十三歳の『平安人物志(へいあんじんぶつし)』では画家の部の筆頭となった。


 たっぷりと水を含んだ筆の穂先に墨をつけて一気に線を引くと、グラデーションによる立体感が出る。この付け立て技法も応挙の特色となる。五十五歳で一門を率いて兵庫・大乗寺(だいじょうじ)(おもむ)き記念碑的障壁画を描き、六十三歳六月、写生画の極み「保津川図屛風(ほづがわずびょうぶ)」を描いて翌月没した。

長澤蘆雪(ながさわろせつ)
宝暦4年(1754)~寛政11年(1799)

長澤蘆雪「寒山拾得図」

長澤蘆雪「寒山拾得図(かんざんじっとくず)
一幅 紙本墨画 天明7年(1787) 和歌山県・高山寺

 蘆雪ははじめ丹波篠山の青山下野守(あおやましもつけのかみ)に仕え、後淀城主稲葉丹後守(いなばたんごのかみ)に仕えた上杉和左衛門の子として生まれ、幼少の頃、稲葉家の足軽長澤氏の養子になったという。やがて、京都に移って円山応挙(まるやまおうきょ)の門人となり、二十九歳の時には『平安人物志(へいあんじんぶつし)』にも名が見えるようになった。


 三十三歳の時、南紀串本にある無量寺障壁画の制作を師に代わって務めるため南紀に出向く。この年暮から翌天明七年(1787)春にかけて無量寺はじめ、成就寺、草堂寺、田辺の高山寺を廻って多くの襖絵や屛風を描いた。この時に蘆雪の奇才は一気に開花したとみられる。無量寺の障壁画に示された大胆なデフォルメと奇抜な構図や軽快に引かれる線の生き生きとした運びは、その後の蘆雪画を特徴づけるものだ。また、付け立てや墨のにじみを極端に使用して大画面を構成する見事さは、応挙から隔絶している。その一方で一寸四方の画幅に五百羅漢を描く超細密画も残す。


 大坂で客死したが、毒殺説もある奇人だ。

曾我蕭白(そがしょうはく)
享保15年(1730)~安永10年(1781)

重要文化財 曾我蕭白「楼閣山水図屛風」
重要文化財 曾我蕭白「楼閣山水図屛風」

重要文化財 曾我蕭白「楼閣山水図屛風(ろうかくさんすいずびょうぶ)
六曲一双 紙本着色 滋賀県・近江神宮

 京都の丹波屋又は丹後屋の屋号を持つ商家の出で、本姓は三浦氏らしい。十代の頃より画を学び始めたようだが、師は狩野永敬(かのうえいけい)に学んだとみられる個性派の高田敬輔(たかだけいほ)説が有力。二十代後半には曾我蛇足(そがじゃそく)十世孫と称した。


 蕭白はたびたび地方を遊歴した。二十九歳から三十歳にかけての伊勢地方を皮切りに、三十三歳で播州高砂へ、三十五歳で再び伊勢へ、三十八歳で再び高砂、四十二歳で三度伊勢へというように。そして四十六歳頃、ようやく京都に落ち着いたようだ。


 蕭白作品の一つのピークは三十五歳である。「群仙図屛風(ぐんせんずびょうぶ)」や「群童遊戯図屛風(ぐんどうゆうぎずびょうぶ)」にみる強烈な色彩の対比には黄檗絵画(おうばくかいが)の影響がみられ、奇嬌(ききょう)な人物の形態は彼独自のものだ。それ以前、三十歳の作「林和靖図屛風(りんなせいずびょうぶ)」の横にうねる梅の大樹は朝鮮絵画の刺激を受ける。四十代前半の「楼閣山水図屛風(ろうかくさんすいずびょうぶ)」には奇怪な岩や樹木が描かれながら、静謐でスケールの大きな空間が構築されており、蕭白画の振幅の大きさがみられる。

池大雅(いけのたいが)
享保8年(1723)~安永5年(1776)

重要文化財 池大雅「陸奥奇勝図巻」

重要文化財 池大雅「陸奥奇勝図巻(むつきしょうずかん)
一巻 紙本墨画淡彩 寛延2年(1749) 九州国立博物館

 京都銀座の役人中村氏(内蔵助(くらのすけ)か)の下役、池野嘉左衛門の子として生まれ、七歳の時、黄檗山杲堂(おうばくさんこうどう)禅師より書の神童と賞せられた。十五歳で『八種画譜(はっしゅがふ)』を手本として扇子に唐画を描いて売り、翌年には柳沢淇園(やなぎさわきえん)に会う。


 二十六歳の時、富士山に登り、日光、塩釜、松島に遊んで江戸に滞在。指頭画(しとうが)の名手とされる。翌年、北陸を遊歴し立山に登り、金沢で「陸奥奇勝図巻(むつきしょうずかん)」を描く。これは没骨風(もっこつふう)の水墨の濃淡と、効果的な藍、代赭(たいしゃ)、緑を点じた魅力的な松島の風景だ。さらにその翌年には白山に登り三岳道者(さんがくどうじゃ)と号した。その後、大雅はたびたび各地を遊歴した。二十九歳の折、白隠(はくいん)が京都滞在中、大雅は教えを請う。


 大雅の画風は従来の規範にとらわれず、奔放に自らの境地を画面に定着させるところに特色がある。「五百羅漢図(ごひゃくらかんず)」は指頭画による大画面であり、「富士十二景図(ふじじゅうにけいず)」にはやまと絵、青緑山水(せいりょくさんすい)、墨画山水といった様々な要素が混然と一体化されており、大雅の自在さがわかる。

与謝蕪村(よさぶそん)
享保元年(1716)~天明3年(1783)

与謝蕪村・円山応挙「ちいもはゝも」画賛図

与謝蕪村・円山応挙「ちいもはゝも」画賛図
一幅 紙本墨画淡彩 広島県・海の見える杜美術館

 摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区)に生まれた蕪村は二十代で江戸に出、俳諧の早野巴人(はやのはじん)()き関東、東北を遊歴する。三十六歳で上京するが丹後宮津に移り、さらに讃岐へ赴く。五十三歳で京都にもどると句会を精力的に開き、五十代後半には俳画を盛んに描く。


 この間、四十代では『芥子園画(かいしえんがでん)』『八種画譜(はっしゅがふ)』に学んで南画を描き、一時期沈南蘋(しんなんぴん)の写生画法に倣った花鳥図や野馬図を描いた。


 六十代は蕪村南画の集大成ともいえる「夜色楼台図(やしょくろうたいず)」や「峨嵋露頂図巻(がびろちょうずかん)」などの特筆すべき風景画を描き、また俳画の傑作「(おく)細道図巻(ほそみちずかん)」、人物画の傑作「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」などを描いて日本南画を大成した。


 池大雅との連作『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』では十宜を描くが、大雅の十便図に刺激された蕪村は大きく成長する契機をつかんだ。蕪村画の振幅は大きいので、俳画と南蘋風(なんぴんふう)作品や南画風(なんがふう)作品を見比べると、とても同一人とは思えない。そこにこそ蕪村の奇才が発揮されているのだ。

祇園井特(ぎおんせいとく)
宝暦5・6年(1755・56)~没年不詳

祇園井特「虎御前と曾我十郎図屛風」

祇園井特「虎御前(とらごぜん)曾我十郎図屛風(そがじゅうろうずびょうぶ)
二曲一隻 紙本着色 享和2年(1802)頃 東京都・出光美術館

 伝記事項がほとんど不明の謎の絵師。とはいえ、井特の絵を一度見たら忘れることはできまい。それほど京都の絵師にしては独特のエグさを持った画風だ。


 年紀と年齢を記した作品が二、三報告されており、それから逆算した生年が推定され、七十三歳までは生きたようだ。


 京都で活躍した絵師だが、『平安人物志(へいあんじんぶつし)』他の江戸期の記録には記述されず、寛政九年(1797)、京都の著名な医者柚木太淳(ゆのきたいじゅん)が死罪人の解剖を行った際、写生に巧みな絵師三人のうちの一人として名を残す。一説に祇園青楼井筒屋亭主(ぎおんせいろういづつやていしゅ)とも言われたが、現在は否定的で、祇園の芸妓の肖像を描いたり、春画を描いたりして生活したようだ。珍器売薬商という説は捨て難い。


 「虎御前(とらごぜん)曾我十郎図屛風(そがじゅうろうずびょうぶ)」は元絵馬で、享和二年(1802)に奉納され、その前年に描いた本居宣長(もとおりのりなが)の肖像と共に井特四十代後半の画風が知られる。肖像画の名手として知られると共に、美人画において独特のデロリ感を示したことがわかる。

狩野永岳(かのうえいがく)
寛政2年(1790)~慶応3年(1867)

 

狩野永岳「西園雅集図舞良戸(さいえんがしゅうずまいらど)」(貼付(はりつけ)
十八面のうち四面 紙本金地着色 文政8年(1825) 京都府・隣華院

 京狩野家の絵師影山洞玉の子として生まれた永岳(えいがく)は、画才を認められ京狩野家八代永俊(えいしゅん)の養子となり、養父が没した文化十三年(1816)家督を継いだ。二十七歳の時である。二十九歳の作かと思われる『京洛三十六家画帖(けいらくさんじゅうろっけがじょう)』中の「松下人物図」が現在のところ最も早期の作品とされるが、人物の衣紋(えもん)や松樹の幹に施された短く鋭角的に打ち込まれる肥痩線(ひそうせん)には、後の永岳画風の萌芽がみられる。


 次に早期の制作が、三十六歳の時の妙心寺隣華院客殿障壁画である。室中を除く全ての襖絵、杉戸絵を描く。金地濃彩画と水墨画を残すが、そこには既に永岳様式の完成がみられる。とりわけ神経質な痙攣(けいれん)を思わせるギザギザの垂直・水平な直線は、幾何学的な構図と共に視覚を刺激する。


 五十七歳で禁裏絵師となった永岳は、公家の九条家、彦根井伊家、紀州徳川家とも関係をもち、妙心寺、大徳寺、東本願寺といった寺院や、三井家などの富商たちへも需要を広げていった。

中村芳中(なかむらほうちゅう)
生年不詳~文政2年(1819)

中村芳中「人物花鳥図巻」(部分)

中村芳中「人物花鳥図巻(じんぶつかちょうずかん)」(部分)
一巻 絹本着色 長野県・真田宝物館

 芳中は京都に生まれ、南画家(なんがか)について絵を学んだようで、初期作品は南画である。その後大坂へ出たらしく、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)との交流が知られている。また、指頭画(しとうが)でも知られた。


 寛政九年(1797)頃の作品は既に琳派風であるので、南画から何らかのきっかけで琳派に移行したようだ。この頃、俳人たちとの付き合いが始まったものか、寛政十一年(1799)の江戸下向にあたって、大坂の俳人たちが送別会を催している。


 享和二年(1802)、江戸で『光琳画譜(こうりんがふ)』を出版する。光琳とは名ばかりで、すっかり芳中風の丸味のある造形作品で埋め尽くされている。この年の末頃大坂に戻った芳中は、丸っこい形態とたらし込みの多用を特色とする独自の作品を描きまくった。


 大画面作品は少なく、掛幅もあるにはあるが、圧倒的に多いのが扇面画である。一見ヘタウマの愛嬌ある作風は、ようやく近年になって受け入れられ、コアなファンもついた。

耳鳥斎(にちょうさい)
生年不詳~享和2・3年(1802・03)頃

 

耳鳥斎「別世界巻(べっせかいかん)」(部分)
一巻 紙本墨画淡彩 寛政5年(1793)頃 大阪府・関西大学図書館

 耳鳥斎は大坂京町堀三丁目界隈でもともと酒造業を営む家に生まれ、後骨董商に転じた。俗名は松屋平三郎。鳥羽絵(とばえ)といわれる狂画の名手として知られるようになるが、絵の師は不明で、一説に鳥羽僧正や大黒の戯画を描いた僧古礀の名があがる。


 耳鳥斎はまた戯作や浄瑠璃にも手を染め、芝居にも出、太夫号をつけて語りもしたという趣味人でもあった。その交流範囲は広く、大坂の木村蒹葭堂(きむらけんかどう)大伴大江丸(おおとものおおえまる)、江戸の大田南畝(おおたなんぼ)にまで及んだ。


 耳鳥斎の戯画人物には蕪村(ぶそん)の俳画人物との類似が指摘され、両者の影響関係は今後の課題である。


 耳鳥斎の傑作「別世界巻(べっせかいかん)」は、「烟草好(たばこずき)の地獄」に始まり「馬士の地獄」で終わる二十一の地獄が描かれる。鬼も地獄に落ちた亡者もどこかユーモラスで、耳鳥斎鳥羽絵の真骨頂を示す。なお、遺作は多くはないが、当時の耳鳥斎は扇面に役者を描いて人気があった。

林閬苑(はやしろうえん)
生没年不詳

 

林閬苑「鹿図(しかず)
一幅 紙本墨画 大阪歴史博物館

 閬苑は大坂の人で、名を又新(ゆうしん)、通称周蔵といい、安永四年(1775)以降閬苑と号したとみられる。諸書から推定される生年は寛保二年(1742)から寛延二年(1749)、没年は安永九年(1780)から天明七年(1787)の間で三十九歳以前に没したようだ。


 はじめ狩野派に学び、後大雅(たいが)の弟子福原五岳(ふくはらごがく)()いた。二十歳前後と思われる明和三年(1766)刊行の『和漢舩用集(わかんせんようしゅう)』十二巻の挿絵を担当しているが、当時の様々な画譜類を学んだとみられ、画風はやや生硬だ。


 安永二年(1773)から四年まで、京都に滞在し、相国寺の狩野孝信(かのうたかのぶ)筆襖絵の修復に携わるかたわら、諸寺に収蔵されている和漢の名画を閲覧し、画嚢(がのう)を肥やした。また京都遊学中の東東洋(あずまとうよう)に画技を伝授したと言われる。


 「鹿図(しかず)」や「騎鹿人物図(きかじんぶつず)」、「漁夫図(ぎょふず)」などの水墨画にみられる奇抜な対象の捉え方には奇才があふれているが、蘭の鉢植えを描いた極彩色の巨大で精緻な描写にも驚かされる。

墨江武禅(すみのえぶぜん)
享保19年(1734)~文化3年(1806)

墨江武禅「明州図」

墨江武禅「明州図(めいしゅうず)
一幅 絹本着色 大阪歴史博物館

 武禅は大坂舟町に住み、永田屋の屋号で上荷船(うわにぶね)(はま)と廻船との間を往復して積み荷を運ぶ小型船)を扱う船頭であったようだ。


 月岡雪鼎(つきおかせってい)に就いて画を学ぶ。「夏季美人図(かきびじんず)」などはまさに雪鼎風の瓜実顔でほっそりとした女性像だ。


 また、山水図を得意とし、中でも夜景図や雨中の景に巧みであったと伝える。「月下山水図(げっかさんすいず)」はまさに夜景の山水で、月の光に照らされて白く輝く遠山や水面、中景から近景に到る神経を逆なでするような陰影描写は無気味でさえある。


 彼は又金工師としても知られ、安永六年(1777)版『難波丸綱目(なにわまるこうもく)』に「鐔師彫物師(つばしぼりものし) つば目貫小つかふしかしら」の項目に武禅の名が掲載されており、作品もいくつか伝存する。


 武禅の画業では占景盤(せんけいばん)を多く描いたことも特筆すべきだ。占景盤とは、砂・土を盛った鉢に石や小樹で山水を作り、陶器の人形や置物を配したものだ。肉筆や版本が伝存する。

葛飾北斎(かつしかほくさい)
宝暦10年(1760)~嘉永2年(1849)

葛飾北斎「上町祭屋台天井絵 女浪」

葛飾北斎「上町祭屋台天井絵(かんまちまつりやたいてんじょうえ) 女浪(めなみ)
一面 桐板着色 弘化2~3年(1845~46) 長野県・小布施町上町自治会(北斎館寄託)

 江戸本所割下水(現在の東京都墨田区亀沢付近)に生まれた北斎は、十九歳で浮世絵師勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門し、翌年春朗(しゅんろう)の号で役者絵を発表。三十三歳の時春章が没し、間もなく勝川派を出て諸派を研究し、宗理(そうり)号で紡錘型のほっそり美人を描く。三十九歳で北斎を名乗り、四十代半ばから読本挿絵に熱中する。五十代で春画を盛んに描き、六十代でオランダ人のために陰影法を多用した日本風俗図を描く。七十二歳頃から「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」を描いて風景画を確立し、八十六歳前後に信州小布施(おぶせ)(おもむ)いて祭屋台天井絵(まつりやたいてんじょうえ)を描く。その「恕涛図(どとうず)」に描かれた異空間へ入り込むような感覚は、北斎晩年のイリュージョンの世界を代表している。九十歳の正月に絶筆とされる「富士越龍図(ふじごしりゅうず)」を描き、四月十八日没した。


 生涯に転居を九十三回繰りかえし、画号も次々と変えていった北斎は、常に新しい表現に挑み続けた、画狂人そのものであった。また、大画を描くパフォーマンスも何度か試みた。

加藤信清(かとうのぶきよ)
享保19年(1734)~文化7年(1810)

加藤信清「阿弥陀三尊図」

加藤信清「阿弥陀三尊図(あみださんぞんず)
一幅 絹本着色 寛政6年(1794) 東京都・高幡不動尊金剛寺

 信清は江戸の人で、幕府の下級役人を務め剣術に巧みだったという。生来画を好み、幼少の頃から狩野玉燕(かのうぎょくえん)に就いて学んだ。


 鳥獣草木を描くより仏の姿を描く方が功徳となり、さらに経文で仏画を描けば写経の徳を兼ねることができると考え、経文で仏画を描くことを決意したという。


 そして五百羅漢像は霊験あらたかと聞きおよびこれを描くことを志すが、家が貧しくままならなかった。


  この信清の作善(さぜん)の志を聞いた小日向龍興寺の陽国和尚が資金援助することとなり、天明八年(1788)正月一日に制作を開始。妻子を遠ざけて作画に専念し、寛政四年(1792年)「釈迦文殊普賢菩薩像(しゃかもんじゅふげんぼさつぞう)」を添えた五十一幅を龍興寺に寄進した。若冲の指導者大典顕常(だいてんけんじょう)が江戸下向の折、信清の「五百羅漢図(ごひゃくらかんず)」を見て感動し「慈雲山龍興寺五百羅漢図記」を書いた。大典は信清の「奇」を鋭く読み取ったのだ。


 その後信清は相国寺や江戸の諸寺に文字絵仏画を寄進している。

谷文晁(たにぶんちょう)
宝暦13年(1763)~天保11年(1840)

重要文化財 谷文晁「木村蒹葭堂像」

重要文化財 谷文晁「木村蒹葭堂像(きむらけんかどうぞう)
一幅 絹本着色 享和2年(1802) 大阪府教育委員会

 文晁は江戸下谷根岸に、詩人谷麓谷(たにろっこく)の子として生まれ、はじめ狩野派の加藤文麗(かとうぶんれい)に画を学び、ついで渡辺玄対(わたなべげんたい)に就いて中国画を学ぶ。さらに土佐派、洋風画などを独習し、江戸に南画を広め多くの画家を育てた功績は大きい。文晁に学んだ主な画家としては、田能村竹田(たのむらちくでん)渡辺崋山(わたなべかざん)高久靄厓(たかくあいがい)立原杏所(たちはらきょうしょ)喜多武清(きたぶせい)遠坂文雍(とおさかぶんよう)などがあげられる。


 文晁は松平定信に認められ、伊豆、相模の海岸巡視に随行し「公余探勝図巻(こうよたんしょうずかん)」を描き、『集古十種(しゅうこじゅっしゅ)』編纂のため関西の古美術品を調査し、模写した。


 文晁画風は若い頃の「寛政文晁」と落款の「文」字が(からす)の形に似る「烏文晁」に大別され、「泉声松韻図(せんせいしょういんず)」「松渓訪友図(しょうけいほうゆうず)」が前者に、「李白観瀑図(りはくかんばくず)」が後者にあたる。


 肖像画においても「木村蒹葭堂像(きむらけんかどうぞう)」は笑う肖像画として特異なものであり、「檜蔭鳴蟬図(かいいんめいぜんず)」は花鳥画としてもユニークで静けさに満ちている。

鈴木其一(すずききいつ)
寛政7・8年(1795・96)~安政5年(1858)

鈴木其一「紅葉狩図凧」

鈴木其一「紅葉狩図凧(もみじがりずたこ)
一枚 紙本着色 個人蔵(兵庫県・滴翠美術館寄託)

 其一は江戸中橋に生まれ、父は近江出身の紫染め職人と言われてきたが、近年生年を寛政七年とし、武士身分出身との資料が出た。その姓も西村氏、山本氏などがある。


 十八歳の時、大名姫路酒井家の一族である酒井抱一(さかいほういつ)の内弟子となり、二十二歳の時、酒井家の家臣で兄弟子の鈴木蠣潭(すずきれいたん)が没し、その姉りよと結婚し鈴木姓となり、酒井家家臣となった。


 其一は抱一在世中より抱一の代作をつとめた気配があり、初期作は全く抱一風である。しかし、三十三歳の十二月、抱一が没すると其一は強烈な個性あふれる自己の画風を築きあげる。「夏秋渓流図屛風(なつあきけいりゅうずびょうぶ)」はその記念碑的作品で、観者の目前に迫り来る水流の描写や目にしみる青と金地の対比など、叙情をふり捨てた景物画といえる。


 其一は職人としての自覚を強く持ち、見積り書では発注者の希望に応じ、工房制作を堂々と展開した。また「紅葉狩図凧(もみじがりずたこ)」の箱書に「金杦邑(かなすぎむら)画狂其一筆」と自署し、葛飾北斎同様に自らを「画狂」としている。

狩野(かのう)逸見(へんみ)一信(かずのぶ)
文化13年(1816)~文久3年(1863)

狩野(逸見)一信「五百羅漢図第二十一幅 六道 地獄」

狩野(逸見)一信「五百羅漢図第二十一幅(ごひゃくらかんずだいにじゅういちふく) 六道(ろくどう) 地獄(じごく)
百幅のうち一幅 絹本着色 嘉永7~文久3年(1854~63) 東京都・増上寺

 一信は江戸本所林町(現在の東京都墨田区立川付近)の骨董商の家に生まれた。父は一信が写生に勤む姿を見て堤等琳(つつみとうりん)派の絵師某に就かせたが、その後四条派、土佐派を学び、薬研堀に住む狩野直信(かのうなおのぶ)の幼名を受けて一信と号した。さらに狩野素川(かのうそせん)に入門し、二十五歳の頃神田白銀町の逸見舎人(へんみとねり)と会い、娘やすの婿となって逸見姓を名乗った。


 三十五歳の時、増上寺の子院源興院再建にあたり仏堂に「十六羅漢図(じゅうろくらかんず)」を描き、この年法誉了瑩(ほうよりょうえい)が源興院十世となった。この了瑩が五百羅漢図を描こうと志した一信に造主となることを約束し、三十九歳の時「五百羅漢図(ごひゃくらかんず)」の十分の一原図制作に着手した


 四十一歳で法橋(ほっきょう)、四十七歳で法眼(ほうげん)に叙任されるが、四十八歳の九月、「五百羅漢図」第九十六幅までを描いて没し、あと四幅は妻妙安や弟子一純によって後日仕上げられ増上寺に寄進された。本作品は、仏画に強烈な陰影法を取り込み、鮮烈な彩色を施した画期的なものである。

歌川国芳(うたがわくによし)
寛政9年(1797)~文久元年(1861)

歌川国芳「水を呑む大蛇」

歌川国芳「(みず)()大蛇(だいじゃ)
一幅 絹本墨画淡彩 弘化・嘉永(1844~54) 個人蔵

 国芳は紺屋を営む柳屋吉右衛門の子として江戸日本橋本銀町に生まれ、十五歳で初代歌川豊国(うたがわとよくに)に入門したと伝えられる。


 三十一歳頃発表した「通俗水滸伝豪傑百八人之一個(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)」の錦絵シリーズが評判となり、武者絵の人気絵師となるが、天保期(1830〜44)には国芳の狂画が大いに行われた。四十七歳の作「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとらいこうこうのやかたにつちぐもようかいをなすず)」が天保の改革を風刺するものとの浮説がたち、大評判となったが、版元が自主回収した。


 天保初期の「東都首尾(とうとしゅび)松之図(まつのず)」に代表される国芳独特の強い陰影法は、無気味な効果を与える一方で、金魚の顔を役者似顔に仕立てたものや猫を擬人化したシリーズは現在でも人気だ。


 弘化年間(1844〜48)には大きな図柄を三枚にわたって描く躍動的な武者絵で新機軸を出す。その他、美人画やいなせな若者を描いた作品も魅力的だが、本展では肉筆画に絞ってその奇才ぶりを見て頂く。

蠣崎波響(かきざきはきょう)
宝暦14年(1764)~文政9年(1826)

蠣崎波響「御味方蝦夷之図」

蠣崎波響「御味方蝦夷之図(おみかたえぞのず)
イコトイ・ションコ 二幅 絹本着色 北海道・函館市中央図書館

 波響は蝦夷地松前(現在の北海道松前町)の大名松前資廣(まつまえすけひろ)の五男として福山(松前)城内で生まれ、翌年同家の家老蠣崎廣當(かきざきひろまさ)の養子となる。十代の頃は江戸屋敷に住んだようで、ここで建部寒葉斎(たけべかんようさい)に画技の手ほどきを受け、ついで南蘋派(なんぴんは)宋紫石(そうしせき)に師事した。


 二十歳までには松前に戻ったようで、その頃から波響と号したようだ。二十六歳の時、クナシリ、メナシ地方のアイヌが圧政に苦しみ、和人七十一名を殺害する事件が起こる。同地方のアイヌの長老たちは蜂起した人々を説得したが、藩の鎮圧部隊は首謀者を処刑した。この時、アイヌを帰順させた指導者十二人の肖像を松前家の命によって波響が描いた。「夷酋列像図(いしゅうれつぞうず)」がそれで、そこには南蘋派に学んだ精緻な質感描写と洋風陰影法による立体感の描写が見事に結集されている。


 この作品は評判となり、二十八歳で上洛し光格天皇の叡覧(えいらん)に供した。この折、円山応挙(まるやまおうきょ)に入門し、円山派の写生技法を取得した波響は、後に松前応挙の異名をとる画家となった。

菅井梅関(すがいばいかん)
天明4年(1784)~天保15年(1844)

菅井梅関「雪中紅梅図」

菅井梅関「雪中紅梅図(せっちゅうこうばいず)
一幅 絹本着色 個人蔵

 梅関は仙台城下鎮南坊(ちんなんぼう)(現在の仙台市青葉区南町)に商家を営む菅井知則(すがいとものり)の長男として生まれた。十代の頃に絵画に熱中し、仙台遊歴中の南画家(なんがか)根本常南(ねもとじょうなん)の手ほどきを受ける。


 二十六歳で描いた「()島図(しまず)」「海鳥図(うみどりず)」には南蘋派(なんぴんは)画風や洋風画の摂取がみられる。二十五歳頃から関東を遊歴し、一時谷文晁(たにぶんちょう)に学ぶが二十八歳で上洛し、東東洋(あずまとうよう)宅に寄寓し、三十歳の頃長崎に向かい、三十九歳で京坂に戻る。その後頼山陽(らいさんよう)とも親交し、画家としての評価が定まりつつあった四十七歳の時、家業を継ぐ弟が失明したため仙台に戻った。


 五十代前半は円熟期にあたり「旧城朝鮮古梅之図(ふるじろちょうせんこばいのず)」「臥龍梅図(がりゅうばいず)」などの力強い墨梅図の傑作を描いた。また「昇龍図(しょうりゅうず)」は梅関が松島で実際に見た感動を絵にしたものだ。五十代後半は作画と大酔の間を往来し、六十歳には借金で苦境に立ち、翌年正月、井戸へ身を投じて没した。二十九歳の巨大な「鵞鳥図(がちょうず)」には、中央画壇で羽ばたこうとする若き日の梅関が重ねられているようだ。

林十江(はやしじっこう)
安永6年(1777)~文化10年(1813)

林十江「松下吹笛図」

林十江「松下吹笛図(しょうかすいてきず)
一幅 紙本墨画淡彩 茨城県立歴史館

 十江は、水戸城東第七街で酒造業を営む高野惣兵衛之茂の長男として生まれた。父は同じ町内で醤油業を営む林家から婿に入り、文雅風流を好み、俳句を学んで梧井と号した。その後、高野家は次弟長吉に継がせ、十江は林家の養子となった。


 十歳の時、立原翠軒(たちはらすいけん)彰考館(しょうこうかん)総裁となり、十二・三歳の時には翠軒の家にしばしば遊びにゆき、雷が墜落したり、犬が喧嘩をして嚙み合ったりするところを難なく描いた。また翠軒の息子杏所(きょうしょ)に絵の手ほどきもした。


 醤油屋を継いでからは利益を目当にせず、人の意表をつくことばかりしたため、家産を傾けてしまう。


 蜻蛉(とんぼ)(うなぎ)蝦蟇(がま)烏天狗(からすてんぐ)など、通常の南画家(なんがか)が描かない主題に挑み、意表をつく筆の走りで対象を描写した。「松下吹笛図(しょうかすいてきず)」では静かな世界を構築し、「花魁(おいらん)遣手婆図(やりてばばず)」では毒のある世界を皮肉に描いてみせた。三十七歳で江戸へ上るも理解者を得られず、失意のうちに帰郷して没した。

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
天保2年(1831)~明治22年(1889)

河鍋暁斎「惺々狂斎画帖」(一)

河鍋暁斎「惺々狂斎画帖(せいせいきょうさいがじょう)」(一)
一冊(全二十六図) 紙本着色 明治3年(1870)以前 埼玉県・河鍋暁斎記念美術館

 暁斎は下総国古河(しもうさのくにこが)(現在の茨城県古河市)に生まれた。父は米穀商亀屋の次男として生まれたが、古河の大名土井家の家臣河鍋信正の養嗣子となった河鍋記右衛門である。翌年、一家で江戸に出て、父は定火消同心(じょうびけしどうしん)甲斐氏の跡を継いだ。


 七歳の時、歌川国芳(うたがわくによし)に入門するが、ほどなく国芳塾を去り、十歳の時、狩野派の前村洞和(まえむらとうわ)に就くも、洞和が病を得て、師家にあたる駿河台狩野の洞白陳信(とうはくのりのぶ)に入門する。十九歳で洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられて独立。二十七歳で鈴木其一(すずききいつ)の次女お清と結婚し、河鍋姓を継ぐ。翌年から狂画を描きはじめ、錦絵を多く描くが、本画も手がける。四十歳の時、戯画を描いて捕えられ翌年放免。狂斎号を改め暁斎と号し、ウィーン万博にも出品するが、風刺のきいた錦絵の注文も絶えなかった。以後、狩野派の本画と錦絵、戯画のジャンルを器用にこなし、外国人にも門戸を開いた。


 すぐれた構想力と巧みな筆技で、日本画の可能性を最大限探り、錦絵の世界でも国芳の世界を進展させた。

佐竹蓬平(さたけほうへい)
寛延3年(1750)~文化4年(1807)

佐竹蓬平「渓山棋楽図」

佐竹蓬平「渓山棋楽図(けいざんきらくず)
一幅 絹本着色 文化4年(1807) 長野県・飯田市美術博物館

 蓬平は飯田の近郊伊賀良(いがら)の大瀬木村の庄屋野口勘左衛門の四男として生まれ、十八歳の時父は多額の借財を抱えて庄屋職を辞し、のち佐竹姓に改めた。


 二十二歳で江戸に出てのち、宋紫石(そうしせき)に就いて南蘋派(なんぴんは)の写生画法を学んだ。二十四歳で江戸を去り、郷里経由で京都に上り大雅(たいが)を慕う。二十九歳の時には甲府で作画し、以後、江戸や郷里を遊歴し、三十四歳で長崎行きを決断して京都を出発。長崎、天草、熊本、博多、平戸を訪ねて大坂へ戻り、三十六歳の春を京都で迎えて郷里へ帰る。四十一歳で妻を迎え五十七歳で長男退蔵が生まれる。翌年、妻を伴って九州に向かうが、途中熊野で病を得て郷里に帰り、そこで没した。


 蓬平の筆は自由奔放であり、人物画においては飄逸(ひょういつ)さが魅力で、山水画では樹木や岩山は筆の赴くままに傾いて平然としている。荒く簡略なタッチの中にのんびりとした気分が横溢(おういつ)して憎めない、愛すべき画境である。

髙井鴻山(たかいこうざん)
文化3年(1806)~明治16年(1883)

髙井鴻山「妖怪図」

髙井鴻山「妖怪図(ようかいず)
一幅 絹本着色 個人蔵

 鴻山は信州小布施(おぶせ)の豪商髙井長救(たかいながひら)の四男として生まれ、十五歳で京都に遊学、儒教を摩島松南(ましましょうなん)、書を貫名海屋(ぬきなかいおく)、絵を岸駒(がんく)岸岱(がんたい)父子、および三畠上龍(みはたじょうりゅう)に学んだ。二十一歳で結婚し翌年妻を伴って上洛。梁川星巌(やながわせいがん)に漢詩文を学んだ。二十八歳で江戸に遊学し、佐藤一斎(さとういっさい)に経学を学び、同郷の呉服問屋十八屋に出入りする。三十五歳の時、父が没し、名実共に主人となる。四十歳前後に葛飾北斎(かつしかほくさい)を小布施に招き、祭屋台天井絵(まつりやたいてんじょうえ)制作を依頼した。


 幕末期には、梁川星巌らの感化で尊王攘夷派であったが、松代藩士佐久間象山(さくましょうざん)との交流もあって次第に開国論に傾いた。


 明治になると教育の重要さを説き、明治九年(1876)東京で私塾髙井学校を開くも翌年閉校。小布施に戻り、長野に私塾を開いて青少年の育成にはげんだ。


 鴻山は、初め気品あふれる花鳥画を描いたが、後に山や岩、建物が妖怪に変ずる化物山水を多く描いた。その妖怪たちは鴻山独自のものでルーツの探求が課題だ。

白隠(はくいん)
貞享2年(1685)~明和5年(1768)

白隠「布袋図」

白隠「布袋図(ほていず)
一幅 紙本墨画 東京都・永青文庫

 白隠は駿州駿東郡浮島・原宿(現在の静岡県沼津市原)の長澤家に三男二女の末子として生まれた。十二歳の時出家を志し、十五歳で松蔭寺の単嶺祖伝(たんれいそでん)に就いて得度し、慧鶴(えかく)と名付けられた。その後、沼津を皮切りに美濃、越前、備後、越後など各地で修行を重ねたのち松蔭寺に帰り、三十四歳で妙心寺第一座となって白隠と号し、松蔭寺住職となった。


 その名声を聞いて各地から雲水(うんすい)たちが参禅する一方で、白隠自ら甲斐、信濃、江戸、美濃に赴き説法した。六十代後半では精力的に著作を上梓し、七十歳頃から背景を黒く塗り(つぶ)す絵を描き出す。


 従来、白隠の絵は教化のための禅画として美術史上では取り扱われなかったが、近年では、野太い線の造形が曾我蕭白(そがしょうはく)の墨画に影響を与えたり、池大雅(いけのたいが)にも影響を与えた一面が考察されるようになった。さらに黒バックの絵も伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の拓版画や奥村政信(おくむらまさのぶ)鈴木春信(すずきはるのぶ)の黒バックの版画への影響が取りざたされる。ユーモアの中にも個性が滲み出る白隠画の表現力は今後も愛され続けるだろう。

田中訥言(たなかとつげん)
明和4年(1767)~文政6年(1823)

田中訥言「日月図屛風」
田中訥言「日月図屛風」

田中訥言「日月図屛風(じつげつずびょうぶ)
六曲一双 紙本金地着色 愛知県・名古屋市博物館

 訥言の出身地は尾張とされるが定かではない。幼少の頃、日蓮宗の寺に入門し、比叡山延暦寺で天台宗を学び、京都の石田幽汀(いしだゆうてい)に絵を学んだ。延暦寺を下って還俗し、土佐光貞(とさみつさだ)門に入る。京都・近江・尾張を往来して活動したらしい。


 二十二歳で法橋位(ほっきょうい)を得、二十四歳の寛政度内裏障壁画制作に土佐家の推挙で参加したとみられる。四十代半ば前後は尾張を中心に活動し、漢画系の筆法や水墨表現に挑み、「若竹鶺鴒図屛風(わかたけせきれいずびょうぶ)」のような銀箔地画面にも挑戦した。


 四十八歳以降は京・尾張を頻繁に往復し、五十二歳以後は京都で活躍した。この頃が最も多作で、「百花百草図屛風(ひゃっかひゃくそうずびょうぶ)」や「日月図屛風(じつげつずびょうぶ)」などの大画面作品を次々と描く。前者は金箔画面に訥言なりの植物写生を組み合わせたもの、後者はやまと絵における日月図の伝統を訥言なりに解釈し、金銀砂子を複雑に散らして瀟洒(しょうしゃ)に蘇らせたものといえよう。

岩佐又兵衛(いわさまたべえ)
天正6年(1578)~慶安3年(1650)

岩佐又兵衛「三十六歌仙図」

岩佐又兵衛「三十六歌仙図(さんじゅうろっかせんず)
二十二面のうち二面 紙本着色 福井県立美術館

 又兵衛は摂津伊丹(せっついたみ)城主荒木村重(あらきむらしげ)、〈たし〉の子として生まれた。村重は織田信長に背いて逐電したため、母は処刑され、又兵衛は乳母と共に身を隠した。


 成人後は信長の子信雄に仕えたが、二十三歳の時、信雄は関が原の戦で敗れ、流浪の身となる。この頃から京都で風俗画を描く工房を主宰したと思われ、舟木本「洛中洛外図屛風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」を描く。


 四十歳の時、松平忠直(まつだいらただなお)に召され、越前北之庄(えちぜんきたのしょう)(現在の福井)に赴き、「金谷屛風(かなやびょうぶ)」や古浄瑠璃絵巻(ごじょうるりえまき)群を制作した。


 六十歳の時、又兵衛は妻子を福井に残して江戸へ行き、将軍徳川家光の娘千代姫の婚礼調度制作に取りかかる。また川越の仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)再建にあたり、拝殿の「三十六歌仙扁額(さんじゅうろっかせんへんがく)」を描いた。この扁額裏面に「土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図(とさみつのぶまつりゅういわさまたべえじょうかつもちず)」と記した。


 京都時代に又兵衛は豊頰長頣(ほうきょうちょうい)の顔に張りのある身体をもつ人物像を確立し、諸派和漢を混合した雑種性あふれる画風で風俗を描き、後に浮世絵の元祖と呼ばれた。

浦上玉堂(うらかみぎょくどう)
延享2年(1745)~文政3年(1820)

浦上玉堂「山高水長図」

浦上玉堂「山高水長図(さんこうすいちょうず)
一幅 紙本墨画淡彩 文化9年(1812)頃 岡山県立美術館

 玉堂は岡山石関町天神山(現在の岡山市天神町)に、備中鴨方(びっちゅうかもがた)池田家の家臣浦上宗純(うらかみそうじゅん)と〈茂〉の第四子として生まれ、七歳の時家督を相続した。


 十六歳で池田政香(いけだまさか)の側詰として仕え藩務をこなす。一方で儒学を学び七絃琴に熱中する。江戸屋敷でもしばしば執務した玉堂は三十五歳の時、江戸で顧元昭作「霊和」銘の七絃琴(しちげんきん)を入手。その「玉堂清韻」印により玉堂琴士(ぎょくどうきんし)と号した。絵は三十代半ば前後から学び始めたようで、四十二歳の小品が初出である。四十三歳で大目付役を解かれ、好事家としての生活に重きを置き、五十歳で脱藩し子の春琴(しゅんきん)秋琴(しゅうきん)を伴って各地を遊歴する。


 七十歳頃には京都に居を構え、中林竹洞(なかばやしちくとう)山本梅逸(やまもとばいいつ)菅茶山(かんちゃざん)江馬細香(えまさいこう)らの文人と交流。


 玉堂自身は生涯七絃琴の奏者であることを誇りとし、画人というのは恥ずかしいとした。しかし、六十七歳の『煙霞帖(えんかじょう)』の「青山紅林図(せいざんこうりんず)」にみる擦筆(さっぴつ)や血を吐くように紙に擦り込まれる代赭(たいしゃ)からは玉堂の心の叫びが聞こえる。まさに心象を写す南画の本質を備えている。

絵金(えきん)
文化9年(1812)~明治9年(1876)

絵金「伊達競阿国戯場 累」

絵金「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき) (かさね)
二曲一隻 紙本着色 高知県・赤岡町本町二区

 絵師の金蔵略して絵金は土佐高知城下新市町(現在の高知市はりまや町)に町人木下専蔵の子として生まれた。幼少より絵を好み、十六歳の頃、土佐山内家の御用絵師池添楊斎(いけぞえようさい)に学んで画才を認められ美高(よしたか)の号をもらう。十八歳の時師の勧めで江戸へ行き、江戸の土佐山内家の御用絵師前村洞和(まえむらとうわ)に学び、二年後洞意(とうい)の号をもらって二十一歳で帰国。家老桐間家の絵師となり林洞意を名乗った。


 三十三歳の時、贋作事件に巻き込まれ、林姓を奪われて城下追放となる。そこで、町医者の弘瀬姓を買い取って弘瀬柳栄(ひろせりゅうえい)と名乗って町絵師となった。その後の動向は定かでなく上方に上って歌舞伎芝居の絵看板などを描いたとも言われる。


 四十代半ば前後には土佐に戻り、二曲一隻の芝居絵屛風を盛んに描く。題材を歌舞伎の場面にとり、切腹や敵打ちなどの血しぶきに満ちた場面を躍動感あふれる筆致で活写し、泥絵具(どろえのぐ)ともいわれる独特の赤・緑・青を刺激的に配した絵は、土佐の祭りを盛り立てている。

仙厓(せんがい)
寛延3年(1750)~天保8年(1837)

仙厓「寒山拾得・豊干禅師図屛風」
仙厓「寒山拾得・豊干禅師図屛風」

仙厓「寒山拾得(かんざんじっとく)豊干禅師図屛風(ぶかんぜんじずびょうぶ)
六曲一双 紙本墨画 文政5年(1822) 福岡県・幻住庵

 仙厓は美濃国武儀郡(みののくにむぎぐん)(現在の岐阜県関市)の井藤甚八の子として生まれた。十一歳の時、地元清泰寺で臨済宗古月派の空印円虚(くういんえんきょ)のもと得度し義梵(ぎぼん)の号を授かり、十九歳から武蔵国永田(横浜市南区永田)の東輝庵で月船禅慧(げっせんぜんね)について修行を積む。三十二歳の時月船が遷化(せんげ)したので諸国行脚の旅に出、三十九歳の時同門の太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めで博多聖福寺の盤谷紹適(ばんこくしょうてき)についた。翌年、紹適の後を継ぎ、聖福寺住職となる。以後、博多で後進を育て、六十二歳で聖福寺住職を弟子湛元に譲って同寺塔頭幻住庵(たっちゅうげんじゅうあん)内の虚白院(きょはくいん)に隠棲した。八十七歳の時、湛元が罪を得て大島遠島となったため、仙厓は再度住職となるが、翌年病を得て没した。


 仙厓が教化の一環として絵を描き出したのがいつ頃か不明であるが、四十代頃から描き始めたとみられる。「寒山拾得(かんざんじっとく)豊干禅師図屛風(ぶかんぜんじずびょうぶ)」にみられる張子のような虎や寒山拾得の顔のマンガのような変奏に仙厓画の特質が現れるが、「羅生門図(らしょうもんず)」のような説話や身近な動植物、名所図などレパートリーの広さも仙厓特有である。

片山楊谷(かたやまようこく)
宝暦10年(1760)~享和元年(1801)

片山楊谷「竹虎図屛風」
片山楊谷「竹虎図屛風

片山楊谷「竹虎図屛風(ちっこずびょうぶ)
六曲一双 紙本着色 鳥取県・雲龍寺

 楊谷は長崎で、医師洞雄山(とうゆうざん)の子として生まれた。幼くして父が没すると十三歳頃から諸国を遊歴し、十七歳には鳥取の黄檗宗(おうばくしゅう)寺院興禅寺に滞在した。この折、医師中山東川が楊谷を歓待し婿養子となったという。


 現在知られる二十一歳の若書「猛虎図屛風(もうこずびょうぶ)」や二十四歳の「猛虎図(もうこず)」をみると、長崎では唐絵派(からえは)沈南蘋派(しんなんぴんは)の絵を学んだのではないかと推定される。


 ところで、驚くのは十九歳の時点で楊谷が五人の門人を抱え、そのうちの一人は備前岡山川崎里の人間だということだ。この楊谷門人譜の『画伝誓文』には他に甲州、但馬の門人も記されている。二十代後半にも各地を遊歴したのだろう。三十三歳で鳥取藩池田家の茶道家の片山家の養子となった楊谷は、京都画人にも知られ、四十一歳で但馬山路寺の障壁画を描いて翌年急死した。


 「鷲図(わしず)」の奇趣あふれる迫力、「竹虎図屛風(ちっこずびょうぶ)」にみる前代未聞の緻密な毛描きに楊谷の異才が看取される。

神田等謙(こうだとうけん)
生没年不詳

神田等謙「西湖・金山寺図屛風」
神田等謙「西湖・金山寺図屛風」

神田等謙「西湖(せいこ)金山寺図屛風(きんざんじずびょうぶ)
六曲一双 紙本墨画 山口県・顕孝院

 伝記が一切わからないという謎だらけの絵師である。『国華』誌上に載る雲谷派(うんこくは)の研究者田中助一氏が寓目した六件の等謙作品のうち二件は六曲一双の「楼閣山水図屛風(ろうかくさんすいずびょうぶ)」で「雪舟未裔等謙筆(せっしゅうまつえいとうけんひつ)」の款記(かんき)をもつ作品。あと四件は八曲一隻と六曲一隻の「楼閣山水図屛風」、そして元六曲一隻屛風の「山水図」と掛幅の「山水図」である。いずれも紙本墨画である。


 印章には、楳月斎、某日斎、雪堂とあるのでこうした別号を持っていたのだろう。さらに「神田典則」と読める印もあり、典則とも名乗ったようだ。その後、四件の作品が知られたが新情報はない。


 そして今回紹介する顕孝院の「西湖(せいこ)金山寺図屛風(きんざんじずびょうぶ)」が十一件目となろうか。


 江戸期を通じて系脈を保った雲谷派の中には、きっと奇才がいるはずだと確信して探してもらい、ついに等謙を発見した。狩野永岳(かのうえいがく)に通じる神経質な震えをもつギザギザの水平な波と、柱状節理の山々の対比は、曾我蕭白(そがしょうはく)晩年の楼閣山水図をも想起させる。本展を契機に、もっと沢山の等謙作品の出現を期待する。

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